お伽噺の理論(『山椒大夫』溝口健二)

残酷な物語が欲しければお伽噺を。なぜならそこには、人間から乖離した、冷たい意志があるから。ここで言う冷たいとは、ぼくたちの感情にまったく触れないことを意味する。生や死や勇気や喜びや悲しみや妬みや恨みや、そういうことから離れきった意志。なぜそれが可能かと言えば、お伽噺には骨格しかないからだ。骨格はものを動かす基本的な形のみを示す。基本的な形でのみ語られる物語は、基本的な構成でのみ成立する。ぼくたちの生活で、そんな基本的な論理で構成された物語を実現することは難しい。感情や状況で左右されるぼくたちの意志は、基本的な論理を外見上複雑にしてしまう。一旦複雑になってしまった論理から、基本構造を持ち出すのは困難だ。だからこそお伽噺は存在していたのだし、このような映画が現れたのだ。安寿が湖に消えた瞬間の水面に漂う複数の円錐模様、それは彼女への哀悼でも、彼女自身の心象の表現でも何でもない。ただの空っぽな風景。だからこそ、胸をえぐられるほど、ぼくは感動してしまうのだ。