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戦争について(『あしたてんきになれ』松本隆)

雨の戦場はつらいのか。塹壕に隠れ照準機に目を括りつける瞬間、風が舞う中の甲板の上でロープを巻きつける瞬間、綿の布地から水が下着に染み込んでくる。雨が止めば止んだで、得られた広大な視界は、自分の姿をさらけ出すことと同じだ。あしたてんきになれ、と呟きながら、瞼をおおう水滴をはらうだけだ。だから、ほんの一瞬雲間から差す陽光で出来あがった虹に、少しの希望を滲ませる。歌も唄えない、口笛もふけないぼくらは、そんな希望を、視界に一瞬浮かんだ七色の輝きに託すだけだ。あしたてんきになれ、あしたてんきになれ。

悪としての自然(『脱出』ジョン・ブアマン)

偽悪的でもなく露悪的でもない、純粋な悪。それが人里離れた村から放たれるのは、どうしようもなく凡庸なのだけれど、悪は純度が高ければ高いほど凡庸になるはずだ。だからこそ、ここで表現される悪は、全く的確なものとなる。その的確さは、自然までをも悪とみなすことであり、何物も関与しない自然は人間に対して容赦ない試練を施す。それを悪と矮小化して見るのは、ぼくたちが歴とした人間だからだ。決して摂理なんかじゃない。悪だ。そして、自分に降りかかる不条理な状況を悪と見なすことで、ここに描かれる地獄の情景を限りなく魅力的になる。人間が完全に自然になるのは、死体になることかもしれない。ここに描かれる様々な死体が魅力的な造形なのも、それが原因なのだと思う。

二つの世界(『狩人の夜』チャールズ・ロートン)

きれいは穢い、穢いはきれい。いろんなことを二分割する。いろんな価値観で二分割する。世界がきれいに二分割されたとき、驚くことにそれは、まったく同一のものとなる。それは、指に描かれた「LOVE」と「HATE」が表現するものと同じだ。ぼくが生きている世界は、きみと同じなのだろうか。ぼくが悪と思っているものは、君にとって善になるのか。ぼくが善と思っているものは、君にとって悪になるのか。それはまったくわからないけど、きっとそうなのだろう。神に仕えるものは、彼を崇めるものを殺し、彼を崇めるものは、彼を松明で焼き殺す。それは恐ろしいことなのだけれども、ぼくが世界を信じたいと思うのは、その世界を融合しようとする、ささやかな意志が存在するときだ。悪の歌と、無垢の歌が重なった時、ぼくはとめどなく涙を流した。

悪夢のような画(『ポイント・ブランク』ジョン・ブアマン)

何度観ても、初めて観たような気がする。でも全てはわかっている。それは毎日みる悪夢と同じだ。始まりと終わりはいつも一緒。でもそこに入り込むと、いつも驚いてしまう。何もかもが明らかなのに、すべてが曖昧だ。そこに描かれている風景は、湿度が低い空気で、笑顔も悪意も失意も恐怖も、同じ明度で映し出されてしまう。主人公が最初に現れるのは、最後に消えるのと同じ空洞だ。空洞の中で、彼は裏切られ、殺され、蘇る。彼は幽霊かもしれないけど、ぼくはそれを信じない。なぜならぼくも、彼と同じように、時間を行き来したいからだ。空間の中に漂いたいからだ。スクリーンに映し出された文様は、繰り出される拳に、無意味な装飾を与える。同時に奏でられるリズム・アンド・ブルースも同じ効果だ。死ぬときに観た映画を、蘇ってまた観る。血の色は渇き、手足は冷たいままだ。奇跡のような映画と言えるが、凡庸な映画とも言える。だからぼくは愛するのだ。