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孤独を愛せるか

永久に生きるものに幸せはあるのだろうか。愛する人の死の連なりは、どれだけ精神を痛めつけるのか、ぼくには想像もつかない。その時々の愛情だけで、僕たちは孤独に耐えられるのか。想い出という名の過去に対する記憶は、必ず死のイメージと結びつく。死にまとわれた人生、そして終わりのない人生、それはどれだけ寂しいものなのだろうか。ニコラス・ローグ『地球に落ちてきた男』は、このような人生のひと時を描いたものだ。主人公は異星人であるが、それはそのまま吸血鬼にあてはめれば、萩尾望都ポーの一族』の孤独感と同じだ。死ぬことが出来る幸せ、死ぬことで得られる安楽、そういうものってあるのだろうか。僕は今、死と隣り合わせに生きているから、とにかく行きたいという気持ちしかないが、死の欠落した人生では死とは喜びになるのだろうか。それはある種の決断が必要だと思うのだが、僕にその決断を得られる時がくるのか、それが僕の希望だとするなら、それはそれでやっぱり寂しいと思ってしまうのだ。

永遠の詩 「レッド・ツェッペリンに捧ぐ」

 ぼくが欲しいのは、便利な言葉じゃない
 必要な言葉だ
 ぼくの心が欲するもの
 それはただ必要な言葉だ

 言葉は旋律とともに現れる
 もしかしたら旋律のみでもいいかもしれない
 その旋律が言葉を蘇らせるから
 旋律が言葉を産み出すから
 
 もしかしたら旋律さえいらないかもしれない
 旋律を支えるリズム
 旋律を変えるリズム

 何もかもがリズムに還元される瞬間
 ぼくはぼくの精神に必要なものを獲得する

 音響を再生する装置の操作のみでそれが得られる
 なんとも手軽で、確実な方法

 

映画にとって必要なもの(『ビッグ・ヒート 復讐は俺に任せろ』フリッツ・ラング)

ぼくにとって映画に必要なものは動作だ。動作が全てを支配する。動作とは効率的な動きだ。効率的とは目的を最小限の動きで達成することだ。登場人物が各々の思惑に対して効率的な動作を行い、物語が進んでゆく。それは理想郷であり、ぼくはその理想郷を見ることに、映画を観ることの快楽を結び付けている。効率的であるためには、用意周到でなければいけない。登場人物がどのようにして目的を達するのか、それは役者の動き方にもよるし、舞台設定にもよる。舞台設定の中で、何でもないものが不穏な雰囲気を醸し出し、それが役者の動作を決定するとしたら、それは完璧な映画空間と言えるだろう。あの沸騰したコーヒーメーカーの蒸気と、それに誘発されるリー・マーヴィンの動きこそ、ぼくが求めるものなのだ。

偉そうにふるまいたい(『秋日和』小津安二郎)

若いころに対峙するのに苦手だった男たちのようになりたい。彼らは決してこちらを理解しようとしなかった。彼らの理解内にぼくたちを閉じ込めていた。その絶対的な精神的距離が、彼らを成熟させたものとして見せたし、その精神的距離の遠さが彼らと話をするのを、ぼくにためらわせた。実際に若くなくなると、若いものを若いものとして扱う、若いものを理解しない、というのは結構難しいものであることに気がつく。そこには屹立とした孤独を自身に内在させる必要があるからだ。理解できないのではなく、理解しないということは、そういうことだ。理解しなくて話すということの寂しさを、彼らは曖昧な笑みと偉そうな佇まいで紛らわす。でもそれは、決して消滅するものではなくて、周囲に拡散する。それを是とするか、非とするかは、各々の人間観に左右されるのだが、今のぼくにはそれが是として認識される。自然発生的に偉そうになりたい。ぼくが憧れるのはそういうことだ。

うんざりしてしまったよ(『うるさい妹たち』増村保造)

ぼくが若さを尊いものと認識したことはなかったし、むしろ若さを疎ましいものとして捉えていた。それなのに、いつの間にか自分が歳を重ねるにつれて、嫌がっていた若さに自分は囚われていて、むしろ執着さえしていたことに気がついてしまう。鏡の前にいる男は、ただの何の取り柄もない中年男がいるだけだ。そこには人生に対して充実感に満ちた幸福感はない。映画を観ている内に自分が認識したのは、もはや川口浩には野次馬的な興味が起きるのみで、共感するのは、もっぱら永井智雄の方だということだ。それにしたって、彼ほどのプチブル的人生を味わうことがなく、今はただ死に向かって生きていくのみだ。誤解して欲しくないのは、それが人生の一面であり、ある種の不幸を自分の人生に飾り立てて、負の意味で肯定的に生きようとはしていないという事。つまりは、自分の僅かな知性を、人生への正確な認識と正しい方向付けに役立たせようとしている。それについては、多少は褒めてほしいんだ。

お伽噺の理論(『山椒大夫』溝口健二)

残酷な物語が欲しければお伽噺を。なぜならそこには、人間から乖離した、冷たい意志があるから。ここで言う冷たいとは、ぼくたちの感情にまったく触れないことを意味する。生や死や勇気や喜びや悲しみや妬みや恨みや、そういうことから離れきった意志。なぜそれが可能かと言えば、お伽噺には骨格しかないからだ。骨格はものを動かす基本的な形のみを示す。基本的な形でのみ語られる物語は、基本的な構成でのみ成立する。ぼくたちの生活で、そんな基本的な論理で構成された物語を実現することは難しい。感情や状況で左右されるぼくたちの意志は、基本的な論理を外見上複雑にしてしまう。一旦複雑になってしまった論理から、基本構造を持ち出すのは困難だ。だからこそお伽噺は存在していたのだし、このような映画が現れたのだ。安寿が湖に消えた瞬間の水面に漂う複数の円錐模様、それは彼女への哀悼でも、彼女自身の心象の表現でも何でもない。ただの空っぽな風景。だからこそ、胸をえぐられるほど、ぼくは感動してしまうのだ。

そばにいてくれ(「Fire and Rain」ジェームズ・テイラー)

同時上映が何だったか忘れたけど、メインの映画があって、サブで『旅立ちの時』という映画を学生のときに観た。確か反体制運動家の親にリバー・フェニックスが引きずりまわされる、というような物語だった。好きなタイプの話ではなかったが、妙に心に残ったのは、「Fire and Rain」が使われていたからだ。ぼくはその時に初めてこの曲を聴き、レコードをすぐ買った。ギターのコピーもしたが、キーがCのくせに、3カポで、キーAで演奏するのは驚いた。3カポで考えると、イントロでA→GonAに移るところが素晴らしく、何度も弾いた。ジェームズ・テイラーの演奏は、J50を使用していて、その独特な音色を再現したかったが、ぼくが持っているヤマハのギターでは無理だった。今は、友人からD28をずっと借りているが、それだと音が派手すぎる気がする。D28は万能型のギターで、どんな弾き方にも対応できて素晴らしいのだが、ジェームズ・テイラーの演奏には、あまり向いていない。ぼくが自分で買った一番高いギターは、西野春平という人が作ったクラシック・ギターだったが、それは別れた奥さんが持って行った。クラシックギターについては、D28を貸してくれた友人が、ホセ・ラミレスも貸してくれたので、自分のものの用に使っている。クラシック・ギターでは、武満徹の楽譜を購入して練習していたが、読譜が大変で中断した。なので、今クラシック・ギターを弾くとしたら、昔コピーしたジョアン・ジルベルトを弾くことになる。ジョアン・ジルベルトのコピーは結構したが、「ボンファに捧ぐ」は、キーがFでローポジションでのセーハが多くて、手が痛くなってあまり演奏しなくなった。おまけに『GETZ/GILBERTO #2』での演奏が素晴らしすぎて、自分での再現は無理だった。それに比べると『三月の水』は再現性が高いもので、その中の色々な曲をコピーした。一番弾いたのは「靴屋の坂道で」で、4コーラス目で、一拍足した変拍子になったところもコピーしたので、再現性が非常に高く、自分で演奏しても、満足した。「ウンデュー」は、演奏自体が難しくなく、かつ唄も、ウンデュー、の繰り返しなので、弾き語りを何度もした。人前でも何度か演奏したこともあるが、だいたいはこれらの曲で、あとはボサノヴァを唄いたい人の伴奏をした。エレキギターを人前で演奏したのは、数年前で、レッド・ツェッペリンのような曲を自作して、ライブハウスで演奏した。この為に買ったギターはジャズ・マスターで、メキシコ製で店頭展示品だったので、かなり安価だった。このバンドでは、オーバー・ドライブした音で、Maj7やDim-13というようなテンション・コードを弾くことに集中し、それはとても楽しかった。バンドは、ぼくの女性問題で解散し、今は1人でD28を弾いている。ぼくと演奏した人たちは、みんなぼくから離れていったが、とりあえずギターだけは弾き続けている。人と演奏したり、バンドを組んだりしたときは、このバンドがいつまでも続くかと思ったが、結局は一人ぼっちだ。Sweet dreams and flying machines in pieces on the ground.だけども、ぼくは君の為だけに演奏したいと思う事があるし、結局はそれでいいんじゃないかとも思っているんだ。